“91歳でフォロワー20万人超”女性が語る「人生の新しいステージへの踏み出し方」
人生100年時代を生きる女性にとって、70歳はまだまだ遅くない“人生の転換点”。それまで家事や仕事や子育てに追われ、夫婦関係に悩んできた人が「自分のために生きる」道を選ぶチャンスでもあります。ここでは、「ひとり暮らし」という生き方を選び、自らの人生を謳歌する大先輩にインタビュー。その実情を教えてもらいました。
「今日も、朝からルーティンの石神井公園での太極拳とウオーキングをやってきました。
ずっと“8千歩”を目標にしてきましたが、今年の猛暑もあって、もう歩数にはこだわりません。この年になったら、何事も無理は禁物です」
そう語るのは東京都練馬区在住の大崎博子さん(91)。還暦を迎えるころから団地でのひとり暮らしを始め、70代で始めたX(旧ツイッター)のフォロワー数は約20万2千人で、昨年出版した著書『89歳、ひとり暮らし。お金がなくても幸せな日々の作りかた』(宝島社)はベストセラーになるなど、大崎さんの日常にはひとり暮らしを楽しむためのヒントがあふれている。
「ふり返ると、後期高齢者として生き生きと暮らせるかどうかの分かれ道は、70歳ごろにあったように思います」
’32年(昭和7年)11月、茨城県に生まれた大崎さん。高校卒業後に上京し、社交ダンスやお花を習うという生活のなかで結婚。35歳で娘を出産した。
「出産後まもなく、離婚しました。シングルマザーという言葉もない時代。シングルに対して冷ややかな視線も多かったなか、姉の喫茶店を手伝ったり、化粧品の営業などさまざまな仕事をしました。
50歳から、もともとファッションに興味があったこともあり、目黒・八芳園で衣装アドバイザーの仕事を始めました」
ひとり暮らしの生活が始まったのは、60歳を目前にしたとき。
「娘が『ロンドンへ留学したい』と言い出し、資金も手続きも自分で済ませて、旅立っていきました。ずっと母ひとり子ひとりで生きてきて、娘も自立心旺盛に育っていたようですし、私もその選択を素直に受け入れました」
そして70歳を迎えるころ、いくつもの人生の転機が訪れる。まず港区の都営住宅団地から、現在の石神井公園近くの2DKの都営住宅団地へ引っ越した。そして、仕事からの引退。
「引っ越しの決め手は、やっぱり大きな緑豊かな公園の存在。70歳を過ぎたら、四季の移ろいを肌で感じられる場所で生活したいと思っていて。港区ではなかなかできなかったんですね。
70歳で仕事を辞めたのは、このまま働き続けていては、残された人生、自分の本当の楽しみを味わえないんじゃないかと思ったから。女性の健康寿命は70代半ば。ずっとシングルで気を張って生きてきて、あとはもう自分ひとり食べられたらいいのでは、と思ったの」
無駄を削ぎ落とし、おのずとシンプルになっていく生活スタイル。
「ケチケチ節約はしないけれど、無駄なものは買わない、増やさない。それで使ったものは戻すことを徹底すれば、お掃除も楽になって、同時に体も楽できる。
テーブルクロスは高いので、カーテンの生地の端切れを買ってきてハンドメイド、買い物用のショルダーバッグも着物の帯でアップリサイクルしたり」
シンプルな生活は、何かと煩瑣な人間関係にまで及んだ。
「お散歩や麻雀なども、気の合う人とだけ。仕事を辞めた70歳ごろから、“無理な人間関係はやめよう”と決めました。ストレスをためるのが健康には一番の敵。
まあ、長く生きていればわかりますが、こっちがこの人とは合わないなと思っていると、相手もそう思っているもの(笑)」
■東日本大震災時に発したツイートが人生の転機に
78歳のときにパソコンを始めたきっかけは、娘さんだった。
「最初は、パソコンのスカイプというサービスを使えば日本とロンドンで無料で通話できるというので、機械オンチでしたが、銀座のアップルストア内のパソコン講座に通い始めました。
マンツーマンの先生も若い好青年だったし(笑)、パソコンで何がしたいかを聞かれ、『東方神起のユーチューブが見たいです』と答えたのを覚えています」
パソコンを始めて3カ月ほどしたときに、やはり娘さんのすすめで当時のツイッターを開始。
「でも、フォロワーも、アップルに一緒に通っていた友達3人くらいで、何がおもしろいのかわからなかった。“いいね”もなかったですし(笑)」
2度目の人生の大きな転機が訪れたのは、ツイッターに登録してほんの3日後の’11年3月11日。
「東日本大震災が起きて、電話は通じませんでしたが、ツイッターとスカイプだけは通じて、こんなに役立つんだ、よし、本格的にやってみようと。その後、福島第一原発の事故も起きるんですが、当時の政府や東電の対応に疑問や苛立ちを感じ、『これじゃ昔の戦争時の大本営発表と一緒じゃないか』という思いをツイッターで発信したら、ライブドアニュースで『老女がつぶやいているすごい話』として取り上げられたんです」
これを機に、一気にフォロワー数が増加。以降、戦争体験や後期高齢者の等身大の暮らしぶりが、多大なる共感を呼んでいく。
「ごく普通に生きてきたおばあさんのつぶやきを、世界中の人が見てくれる。それは、単純にうれしいし、生きる活力になりました。
太平洋戦争が始まったとき私は9歳で、終戦が12歳。食べるものがなくてカエルまで食べたなどという体験を書くと、若い人も反応してくれて、実は古い時代のことを知りたがっているのかなと気づくんです」
’21年ごろには、ツイッターのフォロワー数は13万人を超えた。一見、順風満帆なシニアライフに見えるが、実はこの前後に大病を体験していた。
「70代半ばに胃がんで、胃の3分の2を切除しました。このとき、『もう一度、お酒を呑める体になりたい』と思ったの。普通は『がんでやめました』ですよね(笑)。でも、高齢になってきて、なんでもやめましたは、つまらないじゃない。私にとって、若いころから大好きなお酒は、気分転換の大切な小道具だから。
その後、’18年冬には、石神井公園を散歩中に写真を撮っていて、木の根っこにつまずいて、肋骨を骨折。これも、また散歩してみんなとおしゃべりしたいと思ってリハビリに励みました」
■70歳からのステージは「自分で考え、行動する」
そんな日々の健康を支えているのが食生活だ。これも、シンプルに自然体を心がけている。
「厳しい制限をすると高齢者は栄養失調にもなりかねませんから、自分の食べたいものを食べます。基本は手作りですが、既製品も買います。手間に見合わないから、揚げ物や天ぷらはしません」
毎日、欠かさず食べるものが2つある。
「20年来のぬか床のぬか漬けと、米ぬかを煎ったもの。どちらもお金がかからず、おいしく、栄養満点。米ぬかは、食物繊維や各種ビタミン、カルシウムなどが豊富で、整腸、血液サラサラ、美容にもいい。私は米屋で買いますが、50円なんていう安さ。人にすすめるときには、『タダ同然で健康になれるのよ』と言ってます(笑)。
朝食は、この米ぬかバナナヨーグルト、昼は麺類、夜は晩酌しながら(笑)。350mm缶のビールは毎日で、いいことがあった日にはワインを開けたり。高価じゃなくていいの。カルディで売っている700〜800円くらいの赤ワインが好き」
こうした何げない出来事を日記帳に記して、1日が終わる。
「夜寝る前の習慣で、ほんの2〜3行。その日の出来事や『サミット900円』など家計簿にもなる。そういえば、この日記も70歳ごろからの習慣です。もう何十冊にもなっていて、ふだんは引出しにしまっていますが、この積み重ねがあると思うと安心で、まさに、ひとり暮らしを見守るパートナー。
あとは、仲間との麻雀やBTSの推し活で、認知症予防です」
今回、自身の90年以上に及ぶ人生の来し方をふり返って、改めて気づいたことがあるという。
「長生きしても、不健康だったり、クヨクヨ生きるより、いつも元気でいたい。心身ともに健康でいられるかどうか、その別れ道が70歳ごろにあったように思います。
つまり、高齢になって人生の次のステージへ一歩踏み出すときには、やはり努力がいると思うんです。このチャンスは他人任せにせず、自分で考え、行動しなきゃ。
難しいことじゃない。『手を抜くとこは抜こう』『子どもとは少し距離を置こう』などなど」
70代からの幸福は、自分自身の生き方や選択にかかっているのだ。
「私は“昔はよかった”と思ったことはありません。いつも“今がいちばん幸せ”。みなさんも、今日を精いっぱい楽しみながら、ステキな“高貴香麗者”を目指してください」
(取材・文:堀ノ内雅一)
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