【豊島園】田島十一ヶ寺(練馬十一ヶ寺)の見どころは?御朱印のお取り扱いは?

墓地の見どころ

小野蘭山墓


小野蘭山は、江戸時代の本草学者(薬用の植物や鉱物を研究する学者)です。享保14年(1729年)京都に生まれ、寛保元年(1741年)松岡恕庵について本草学を学び、寛政11年(1799年)71歳のとき江戸に移り、幕府の医学館で本草学を講義しました。その弟子の一人に杉田玄白もいました。また、幕府の命令を受けて享和元年(1801年)から文化2年(1805年)にかけて採薬のため諸国を巡り、その結果を採薬記にまとめています。特に享和3年(1803年)に出版された『本草綱目啓蒙』は、日本における最大の本草文献であり、のちの博物学の発達にも大きな影響を与えました。文化7年(1810年)に、82年の生涯を閉じました。もとは浅草の誓願寺塔頭の迎接院の墓地にありましたが、お寺の移転とともに現在地へ移りました。

池永道雲墓




写真右

池永道雲は江戸時代の書家です。延宝2年(1674年)に江戸の商人の家に生まれました。書において一家をなし、『篆海』『篆髄』『間窓楽事』など、著した書物の数は18種50余巻に及びます。また、木・石などに印を彫る篆刻を黄道謙に学び、いろいろな印影を集めた『一刀萬象』三巻を著して、印譜においてわが国で先駆をなしました。元文2年(1737年)に死去しました。

千葉さな子墓



千葉さな子(千葉さな)は坂本龍馬の婚約者です。残念ながら結婚には至りませんでした。若くして北辰一刀流免許皆伝した女性の剣豪としても有名です。

力士二所ノ関勝巳墓



佐賀県佐賀市八戸町出身の大相撲力士です。本名は北村勝巳。17歳の時に佐賀ノ花として初土俵を踏みました。
初土俵から7年後には小結、翌年には関脇に昇進しました。さらに翌年は一度小結に逆戻りしたが、大関に昇進し35歳まで現役を貫きました。
師匠二所ノ関の廃業を受け、年寄・二所ノ関を二枚鑑札によって襲名し、引退後は部屋経営に専念しました。その後1975年、急性骨髄性白血病の為57歳で死去しました。

羅漢像



人が本来もっている仏性を見るようにとお腹を開いています。墓地通路の突き当り2か所にいらっしゃいます。

慈母観音像


秋田県大館市出身の彫刻家松田芳雄氏によって制作。東日本大震災物故者追善のため、平成二十四年に寄贈されました。

まとめ

豊島園にある田島十一ヶ寺をご紹介しました。
お寺の移転理由や歴史的な人物の墓地など、個人的には歴史を学ぶ機会にもなり興味深かったです。
ご近所の友人に聞いてみたところ、「あるのは知ってたけど行ったことなかった」とのこと。同じようにまだ訪れたことがない方にも興味を持っていただけたら嬉しいです。

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