牧野富太郎、93歳でも植物への情熱衰えず…「薄給」でも日本中を駆け巡った生涯

 2023年4月から放送しているNHKの朝ドラ「らんまん」は、「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎(1862〜1957)をモデルにした物語だ。筆者も小学生の頃に伝記を読んだ記憶があり、生涯にわたる業績は多くの人が知るところだろう。集めた標本は40万点に及び、1500種以上の植物を命名した。研究の集大成「牧野日本植物図鑑」は名声の確立に十分だった。牧野は小学校中退で学歴とは無縁。


ひどい貧乏ゆえ借家にいられず転居すること30回、肩書や名誉を自ら求めなかった。しかし、その型破りな人生は私たちを惹きつけてやまない。放送を機に関連書籍も出版され、不思議な魅力を持つ人物だと再認識されている。(調査研究本部記者・佐藤良明)

 牧野の人生は貧しさとの戦いだった。生誕150年を記念して2014年に出版された「MAKINO」(高知新聞社編、北隆館刊)は、その生涯を丁寧に追いかけた一冊だが、中身は「日本を縦横に駆け巡る植物採集の旅」と「いかに窮乏生活が長かったか」が二本柱になっている。

 人はふつう収入に見合う生活をする。しかし牧野は研究に必要な書籍はどんどん購入し、採集旅行にも出かける。77歳まで東京大学に職を得ていたが薄給で暮らせず、標本を海外に売るしかないと騒ぎになる。それが新聞に載るほどだった。絵に描いたような「貧乏」とは牧野のことだ。

 勤めていた東大での立場は、いま問題になっている非正規雇用。非常勤講師として「1年ごとに雇用を更新していくというものだった」(「MAKINO」)。立身出世や名誉を得るなど俗物的な考えは一切持たなかった。植物が好きで仕方がなく、生涯研究を続けていたのだ。

 牧野自身の言葉もある。「牧野富太郎 なぜ花は匂うか」(2016年、平凡社)に収録された随筆をみると、「今年九十三年に達した私はこれから先、体のきく間、手足の丈夫な間、また頭のボケヌ間は、いままで通り勉強を続けて、この学問に貢献したいと不断に決心している。もうこの年になったとて決して学問を放棄してはいない」(1955年)。老いてなお、道一筋だった。

 西武池袋線の大泉学園駅からほど近い住宅地に「練馬区立牧野記念庭園」がある。牧野が当時としては草深い北豊島郡大泉村上土支田(現・東京都練馬区東大泉6丁目)の地に住まいを定めたのは大正15年(1926年)、64歳の時だ。ここが今は庭園になっている。

 若き日の池波正太郎は短編小説「牧野富太郎」(1957年発表)で、こんなことを書いている。池波が東大泉の自宅に病の重篤な牧野を見舞った帰路のこと。「思わず立ち止まったほど強く感じたのは・・・全く死ぬことを考えずに仕事を続けている博士の、うらやむべき幸福さだった」「死ぬまで働けるということへの・・・人類の切々たる熱望を博士は身をもって示しているわけなのだ」。牧野の衰えない情熱のほとばしりは、池波をいたく感動させた。

 それにつけても、植物分類学への貢献は牧野個人の功績だが、ひとりでは達成できなかった。

 筆者は調査研究本部でノーベル賞受賞者を招いた講演会を運営している。講演では、「良い師、良い仲間に恵まれた」(2015年物理学賞梶田隆章博士)、「一期一会を大切に」(同年生理学・医学賞大村智博士)などと、自分自身の研究生活を振り返る受賞者が少なくない。

 人との出会いが重要なのは科学者に限らないが、植物分類学の礎を築いた牧野の業績を知るにつけ、ノーベル賞受賞者たちのこうした感慨は牧野の生涯にも通じ、牧野こそ周囲に支えられた最たる人物に思える。家計をやりくりした妻の寿衛子をはじめ、経済援助をした神戸の資産家、仲間の植物学者など、破天荒な生き方を陰で支援する人たちがいたからこそ、研究に取り組めた。

 あらためて、牧野の魅力とは何だろう?

 かつて記念庭園が催した講演会で、国立科学博物館植物研究部の田中伸幸さんは「牧野博士は全国を飛び回り植物の知識の普及に努めたことで、人々の(心の)中に永久に残ることになりました。論文(を書く)だけで終わる他の学者と違うのは、その点です」と語っていた。記念庭園では牧野の書斎を再現するプロジェクトが、寄付をもとにして進められた。4月3日からは一般に公開されている。

 朝ドラ「らんまん」の関連番組では、牧野の等身大写真パネルがスタジオに登場した。とびきりの笑顔を見せるその姿は、四季折々の植物に好奇心が尽きない牧野の天真(らん)(まん)ぶりをよく表している。

引用元:BIGLOBEニュース

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