【沖縄】「戦争終わったよ」投降呼び掛けた恩人は斬殺 久米島での住民虐殺、朝鮮人家族も犠牲に 「一番怖かったのは日本兵だった」★6

久米島であった日本兵の虐殺事件や、集団投身自殺寸前で思いとどまった体験などを話す渡嘉敷一郎さん(右)と妻の政子さん=19日、東京都練馬区の自宅

 【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。


渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の妻政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。

 沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日本のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)の兵士に妻子と共に殺された。

 渡嘉敷さんは旧具志川村(現久米島町)仲泊の出身で、戦争中は50~60人で避難生活を送っていた。「ヒージャーミー(米国人)に殺される」との話が住民の間に広まっていった。米軍上陸後、母親の親戚と一緒に逃げていた渡嘉敷さんは、池に飛び込もうとしていた矢先、「もう戦争は終わったよ。もう死ぬことはないぞ」という仲村渠さんの呼び掛けを聞いた。「あれは西銘(集落)の明勇だ」と誰かが叫び、われに返った渡嘉敷さんは投身を思いとどまった。

 当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。

 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

■ほかにも住民虐殺が…

 久米島では日本軍による住民虐殺がほかにも起きている。渡嘉敷さんの妻政子さん(80)=同村仲地出身=は「島の人も関わったとされタブー(禁忌)となってきたが、何らかの形にして事実として伝えていかないといけない」と東京で島の沖縄戦について語り続けている。

 日本兵による住民虐殺は当時から住民の間でうわさになった。政子さんは「大人たちが屋号で『どこどこの誰々が殺されたよ』『部落の方で異様なことが起こっているよ』と話していたのを聞いていた」と話す。

 戦後も虐殺があったと聞いた場所に来ると、カヤを結んだ魔よけを手に通ったものだった。「子ども心にも、その時のことが思い出され、たまらない気持ちになった」。大人になって久米島の戦争の本を読んで、「ああ、あの話はそうだったのか」と記録と記憶がつながっていった。

 小学校1年で教えてくれた教諭が、島に配置されていた中野学校出身で「上原敏雄」を名乗る残置工作員だった。ある時、学校に米軍の憲兵が来て、2人で教諭を羽交い締めにして軍用車両で連行していった。その後の消息は知らないという。

 住民虐殺というテーマを語り継ぐのは重いため、得意の三線も交えて伝えている。島の悲劇にあえて向き合う夫婦。「今も残された者も重荷を背負いながら生きている」との思いを背に語り継いでいる。

 今年の慰霊の日は午後2時から、東京都練馬区立男女共同参画センター「えーる」で、久米島の沖縄戦について政子さんと一郎さんが語る会が催される。(滝本匠)

◆久米島における沖縄戦での住民虐殺

 久米島に駐留した日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)が、6月26日の米軍上陸後にスパイ嫌疑で住民20人を殺害した。米兵に拉致された住民を「スパイ」と見なし、目隠しのまま銃剣で刺し、家に火をつけて焼き払うなどした。朝鮮人家族も犠牲になった。島には残置工作員が具志川村に上原敏雄、仲里村に深町尚親を名乗る2人(いずれも偽名)が小学校に配置されており、住民虐殺への関与が疑われている。

6/22(土) 10:09配信

★1:2019/06/22(土) 16:58:14.51

引用元:2NN

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