宮沢りえ伝説「ヌードでもどうですか」「連休明けかしらね」母の溺愛と叱責…155万部『サンタフェ』秘話
「この度、V6は2021年11月1日をもちまして、解散いたしますことをご報告申し上げます」。3月12日、ジャニーズ事務所はV6の解散を発表した。「これからの人生、ジャニーズ事務所を離れた環境で役者としてチャレンジしたい」と明かし、事務所を退所するメンバーの森田剛(42)と、妻の宮沢りえ(47)の存在に注目が集まった。
宮沢の半生に迫ったノンフィクション作家の石井妙子氏による「宮沢りえ『彷徨える平成の女神』」(「文藝春秋」2019年5月号)を特別に公開する。その才能の虜になった人々が明かした30年の波瀾万丈とは。(全2回の1回目/ 後編 に続く)
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)
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三井のリハウスCMに現れた「白鳥麗子役の美少女」
改元にあたって、平成を代表する女性スターは誰かと考えたとき、彼女の名前が浮かんだ。
宮沢りえ、46歳——。かつては人気や話題性が先行するアイドルスターであったが、近年は女優としての評価を高めた。映画では『紙の月』、『湯を沸かすほどの熱い愛』で各映画賞の主演女優賞を受賞。舞台でも、故・蜷川幸雄や野田秀樹ら一線級の演出家にオファーをされ続けてきた。今秋には蜷川実花の監督作品『人間失格』の公開も控える。
また、昨年には二度目の結婚をし、母として小学生の娘を育てているが、そうした私生活は極力、メディアに語るまいとしているように映る。
彼女は昭和の終わりに登場し、平成を駆け抜け、今の彼女となった。その軌跡を時代の中で振り返りたい。
三井のリハウスのCMが始まったのは昭和62(1987)年。バブル期の真っ只中で、「一億総中流」といわれていた頃のことだ。「リハウスしてきた白鳥麗子です」と、たどたどしくセリフを語る少女の、可憐な美貌が話題を呼んだ。「白鳥麗子役の美少女」として、世間はまず彼女を認識したのである。
「宮沢りえ」として知られるようになるのは翌年のこと。映画『ぼくらの七日間戦争』への出演で、顔と名前が同時に知れ渡った。作品は管理教育を強いる教師たちに戦いを挑む中学生11名の物語。意外なことにキャスティングされたのは、三井のリハウス以前であったと監督の菅原浩志は振り返る。
「学級委員役だけが最後まで決まらなかったんですが、約1万2000人の中学生に会い、やっとりえに出会えた。自由の女神のように崇高で、皆が自然と従いたくなるような少女を探していたんです。演技経験はなくても良かった。りえを見た瞬間、『ああ、やっとみつけた!』と感じた。あの透明感。こんなにも清らかに育ってくれた少女がいたなんて」
当時のりえはモデル事務所に所属していたものの、「女優になりたい」といった意志は当人にまったく見られず、映画出演を決めた理由も「中学生時代の思い出になりそうだから」というものだった。
「高校1校受けたけど落ちちゃった。私、女優になります」
昭和最後の夏休みに公開されると映画は大ヒット。年が明けて平成になり、りえが菅原のところにやってきた。
「突然、りえが『高校1校受けたけど落ちちゃった。私、女優になります』と言い出した。私は映画に抜擢した責任を感じ、『りえ、今からでも行ける高校を一緒に探そう。業界に同じ年の友だちはいないよ。女優になるのはそれからでもいいじゃないか』と説得にかかりました。でも、彼女の決意は非常に固かった。1年前まで女優になりたいなんて、まったく思っていなかった子でしたが」
りえは高校に行かず、16歳で本格的な芸能界デビューを果たすと、すぐさま映画、テレビ、レコードでそれぞれ大評判となる。何よりも話題をさらったのはカレンダーだった。
ヒップに紐1枚をまいた姿は、「ふんどしルック」と言われ世間を騒然とさせた。昭和のアイドルは清楚、清純、未熟さを売り物にしていたが、そうしたアイドル像をぶち壊すインパクトがあったからだ。未成熟と成熟の合間の危うさ。それに戸惑うような、それを自覚しているような、りえの蠱惑的な表情——。
こうした演出、売り出し方を考えたのは、母の光子だった。その関係を間近で見てきた音楽プロデューサーの酒井政利は、こう振り返る。
「光子さんの娘への愛はとても激しいものだった。光子さんにとって、りえさんは愛する娘であり、表現の手段でもありました」
りえを作ったのは光子だとよく語られる。強烈なキャラクターで知られ、りえへの愛は支配的で狂気を含んでいた、と証言する人も少なくはない。「一卵性親子」と称された母子。「りえママ」と時に批判を込めて、時に称賛を込めて呼ばれた。
私はその「りえママ」こと宮沢光子と一度だけ、電話で話をしたことがある。伝説の銀座マダム、上羽秀(うえばひで)の生涯を描いた私の著書『おそめ』が、もし映像化されるのであれば、是非、娘に主演を務めさせて欲しいと出版社に連絡があり、ちょうど映像化の話が舞い込んできたので、私から「りえママ」に電話を入れたのだ。その際、受けた印象は、巷間言われているとおりで、「ああ、なるほど、これが『りえママ』か」と思わされるものだった。
確かに傍若無人さも感じはしたが、嫌悪感は抱かなかった。それは足元を見られるまい、娘に寄ってくるものには一瞬も気を許すまいとハリネズミのように毛を逆立てる母の姿をそこに見たからである。
この母を知らなければ、「宮沢りえ」は理解できない。
光子は昭和24(1949)年に生まれ、東京で育った。父の喜一は絵描きを目指し、戦後、商業デザイナーに転じて成功する。子どもは5人おり、光子は末子。母が家を出てしまい、途中から父子家庭となる。
光子はバレエを習い、水泳でも才能を見せたが、いずれも父の反対に遭い、本格的に極めることはできなかった。女は家庭に収まるのが一番と考える、保守的な父に光子は反発する。高校を卒業すると家に寄り付かなくなり、容姿に恵まれた光子はモデルやホステスをしながら当時の六本木で遊び、自分にふさわしい人生を自分の手で掴もうとした。
母・光子は「りえを溺愛していたけれど、怒る時は激しかった」
外国で語学を学ぼうとヨーロッパ行きの船に乗り、オランダ人の船員と恋に落ちる。しばらく、オランダの片田舎で暮らしたものの退屈な生活に耐えきれず帰国。昭和48(1973)年4月、りえを東京で出産する。夫が光子を追いかけてきたが、文化の壁は厚く、以後、りえを女手ひとつで育てる。シングルマザーという言葉もなかった時代、母子家庭に世間の風は今よりもずっと冷たかった。
そんな光子を全面的に助けたのが、姉のさつ子だ。夫、息子と練馬区大泉学園に住む主婦のさつ子にりえを預けると、光子は都会にマンションを借り、銀座でホステスとして働いた。さつ子には養育費を仕送りした。やがて、店でピアノを弾いていた小澤典仁と再婚し、りえを引き取る。小澤が当時を振り返る。
「光子は家庭には向かない女性だった。煙草と飲み歩くことが大好きで。酒には飲まれてしまう。りえはかわいかったが、僕には懐かなかった。光子がそう仕向けるからです。僕が何か言った時、りえが泣いて光子に駆け寄った。すると光子が『だから言ったでしょ、パパのそばには寄るなって』と。つねに2対1にされてしまう。りえは離れ離れで育ったせいか異常なママっ子で、光子のスカートの陰に隠れて片時も離れようとしない。光子はりえを溺愛していたけれど、怒る時は激しかった」
夫婦ともに夜の街に働きに行く。りえは家にひとり残される。近所の人が同情して、りえにおにぎりをくれた。それを食べたと知ると光子は激怒した。自分以外の誰かが娘に愛情をかけ、結果、娘がその相手に好意を抱く、それが身を切られるように辛かったのだろう。りえはこうした経験から、いっそう母だけに密着していく。
やがて光子は身ごもり、りえにとっては4歳違いの異父弟を生むが、翌年には離婚する。
光子がりえに自分以外の人間に愛を求めることを許さなかったように、母もまたりえ以外を愛さなかった。小澤側から言い出された離婚の条件を呑み、息子との縁は切った。
離婚後、光子は大病をする。子宮癌だった。幸い手術は成功したが、ホルモンのバランスが崩れ別人のように太った。感情の起伏もまた、いっそう激しくなった。この経験が「若い時の美しさは特別なもの。20歳を過ぎれば、りえも太るかもしれない。私のように」という持論に繋がっていく。
銀座や六本木で働けなくなった光子は、都心から離れたところでスナック勤めをし、保険の外交員になった。そして、キャベツ畑が広がる姉の家近くのアパートに移り住むと、小学生のりえを引き取り、ふたりで暮らし始める。
生活は楽ではなかったが、窮状を救ったのは幼いりえだった。美貌に恵まれた少女は近所に住むカメラマンに声をかけられ、小学5年生の時からモデルを始めた。次々と仕事が舞い込み、小学校は休みがちになる。ここまでが昭和の話である。
麻布のマンション、広尾ガーデンヒルズへ…生活は一変した
平成元(1989)年、りえが区立大泉学園中学を卒業すると、母子は麻布のマンション、そして広尾ガーデンヒルズへと移り住む。生活は一変した。
家庭的でないと思われがちな光子だが、料理の腕前は素人離れしていた。広尾の自宅は光子によって選ばれた「一流」の男たちが招かれるサロンとなった。映画監督、写真家、俳優、イラストレーター、作家。彼らはりえの教師であり、仕事相手だった。サロンに招かれていた菅原は、当時の様子をこう振り返る。
「光子さんが選んだ大人たちの中に、10代のりえも交じっていた。映画監督の勅使河原宏さんも、りえをとてもかわいがったひとりでした。ある時、りえを連れて芝居を観に行き、途中で勅使河原さんは席を立った。『舞台が面白くなければ意思表示する。大切なことだよ』と教えてくれたと、りえは言っていました」
松竹のプロデューサーだった奥山和由もサロンのメンバーであり、りえの主演映画『エロティックな関係』『豪姫』の製作に携わる。
「仕事は全部ママが決めて、何かあればママがクレームを言う。ママを悪くいう人も当然、出て来るけれど、圧倒的な戦闘能力で娘を守っていたんだよね。りえちゃんに対しては無条件の愛だった。『ねえ、最高でしょ』って。事実、最高でした。りえちゃんには、すべてを浄化する力と、全身から発するオーラがあって。一方、ママには芸術的なセンスがあった。ビートたけしに映画を撮らせたらいいと僕に勧めたのもママ。興行的に惨敗して、ママに愚痴を言ったら、『そのうち回収できるわよ』と。実際、そうなった。『その男、凶暴につき』『ソナチネ』など、今では名作として評価されています」
音楽では酒井がプロデュースし、デビュー曲は小室哲哉が作曲。酒井の下でりえを担当した元CBSソニーの髙野利幸はこう振り返る。
「ママは音楽にはかなり厳しかった。洋楽が好きで、ある日、デビッド・ボウイの『Fame』を持ってきて、『これのカバーができないかしら』と言われて。『権利関係を取るの、大変だな』と思ったけれど、何とかクリアして3曲目のシングル『Game』として発表した。この曲で紅白に初出場したんです」
紅白でも光子は天下のNHKを相手にバトルをする。NHKにはりえを行かせない、別の場所からの生中継、演出はこちらの案で、という条件をすべて呑ませた。
光子の剛腕ぶりを非難する声も湧いたが、りえへのオファーは絶えなかった。光子はりえの個人事務所を設立し、姉のさつ子とともに経営した。平成元年の本格的なデビューと同時に、飛ぶ鳥を落とす勢いで国民的スターとなった少女。だからこそ、その日、新聞を開いた人たちは驚愕した。
「ヌードでもどうですか」
平成3(1991)年10月13日、読売新聞に掲載された写真集『サンタフェ』の全面広告。りえは一糸纏わぬ裸体。撮影は篠山紀信。日本中が揺れるような騒ぎとなった。りえは18歳。写真集が作られた経緯を篠山はこう説明する。
「たまたま、りえのいない席でママと世間話になって冗談で言ったんだよね。『そろそろ、ヌードでもどうですか』って。社交辞令だよ。ところが、ママが『そうね、撮るとしたら、連休明けかしらね』って。僕は驚いて後日、改めてオファーした」
計画は極秘で進められ、一行は米ニューメキシコ州のサンタフェに向かった。初日の野外撮影を終えてホテルに戻り、壁にポラロイド写真を張って篠山とりえが見入っていると、そこへ光子がやってきた。
「ママは写真を見て、『あなたたち、何やってるの。こんな写真撮りにきたんじゃないわよ』って怒り出した。初日はほとんどヌードを撮らなかったから。気を遣って。だから翌日から遠慮せず撮りにいったよ」
「宮沢りえ」の価値を貶める相手には「発言と抵抗」
写真集は155万部を売り上げる。それは芸能界の話題を超える社会現象だった。18歳の少女がヌードになったことを問題視し、光子を「女衒(ぜげん)」とまで非難する声も上がった。主体となったのは父親世代、祖父世代の男性たち。一方、女性たちはおおむね好意的に捉えた。作家、瀬戸内寂聴もそのひとりだった。
「私も買いましたよ、『サンタフェ』。綺麗でした。芸術ですよ。男の人たちが、テレビで勝手なことを言って批判してましたよね。そういう男の人こそ人に隠れてこっそりヌードを見て下品に喜んでいるのよ」
篠山は光子の決断を、こう見る。
「光子さんはアーティストだったから。りえという存在を使って、作品を残したかったんだと思う。ある局が『サンタフェ』の発売日に写真をバンバン許可なく放映した。その時の光子さんの怒りようはなかったよ。局側は大手プロダクションに所属していないから見下したんだ。あそこは母ひとり、子ひとりでやってるようなところだから、って。でも、ママはひるまず抗議した。『宮沢りえ』の価値を貶める相手には徹底して発言と抵抗をした。よく頑張ったと思うよ」
「ママはりえさんの異性関係までコントロールしようとしました」
女性自らが誇らしく肉体をさらす。女の裸身を貶めて性を淫靡なものとする日本の男社会の価値観に、『サンタフェ』は揺さぶりをかけた。だからこそ、保守的な男たちは動揺し、過剰に攻撃したのだろう。
以後、人気女優が次々とヌード写真集を出し、一般の若い女性たちの間でもヌード写真を撮って残す風潮が生まれた。平成は「宮沢りえ」によって作られていくかのようだった。
光子の課題は次に、りえをどうやって大人の女性にするか、に移った。酒井は振り返る。
「ママはりえさんの異性関係までコントロールしようとしました。光子さんには、一流の男性と付き合ってこそ、一流の女性になれる、という信念のようなものがあった」
光子は雑誌『DENiM』に自分が連載するエッセイの中で、りえの目下の恋人はビートたけしだが、ふたりはまだ肉体関係を結んでいない、好きならそうなるのが自然なのにと書き、物議をかもした。ビートたけしには妻子があり、りえより20歳以上も年長である。これをどうとらえていいのか、芸能マスコミに身を置く井上公造は当惑したと振り返る。
「あれもママ一流の演出だったのかもしれません。あるいは、そう書くことで逆にりえさんの清純さを宣伝したかったのか」
りえに匹敵する10代のスター・貴乃花に惹かれて
だが、19歳になるりえには、当然ながら自我が芽生えており、母親のけしかける恋に乗ろうとはしなかった。「たけし・りえ」と騒がれるなか、ひそかに恋を育んでいく。相手はスポーツ新聞での対談で知り合った相撲界のプリンス、貴乃花(当時は貴花田)。その頃、りえに匹敵する10代のスターは彼だけだった。
( 後編 に続く、文中敬称略)
宮沢りえ「悲劇のヒロインにはなりたくない」貴乃花と破談会見の真相、母の死、森田剛と再婚…30年の軌跡 へ続く
(石井 妙子/文藝春秋 2019年5月号)
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