ヤクルトの2000年ドラ2位投手、鎌田祐哉が振り返るプロ入り秘話と試練続きだった現役時代

ヤクルト2000年ドラフト2位
鎌田祐哉インタビュー 前編
 プロ野球界は実力の世界。ドラフトで新人選手が入ってくれば、その分、枠を空けるために戦力外通告を受ける選手がいる。
【画像】今は不動産業で活躍。ヤクルト2000年ドラ2位 鎌田祐哉の現役時代と今
 NPB(日本野球機構)が昨年4月に発表した「進路調査結果」によると、2020年オフに戦力外通告を受けた、または現役を引退した日本人選手133人中、野球関係の仕事に就いたのは101人(約76%)。4分の3は、他球団や独立リーグなどで現役を続けるか、指導者や球団スタッフとして球界に残る道を選んでいる。

ヤクルトの先発、リリーフとして活躍した鎌田
 注目は、残り4分の1のうち、野球とは無関係の「一般企業」に就職した選手が11人(約8%)いることだ。彼らは、まったく畑違いの世界でセカンドキャリアを歩む選択をしたのである。
 元プロ野球選手は、少年の頃から野球ひと筋、という人が多い。20代の若い選手や社会人野球出身者ならともかく、一般企業に勤めた経験がない30代の選手にとっては、新卒の社員に交じって新人研修を受けたり、年下の上司の下で働くのは精神的にもつらいものがあるだろう。
 しかしなかには、現役時代の経験を武器に、第二の人生で成功を収めているケースもある。今回はそのひとり、ヤクルトで投手として活躍し、2012年に現役を引退した鎌田祐哉にスポットを当ててみたい。
 鎌田はヤクルト入団1年目の2001年、いきなりリーグ優勝と日本一を経験。その後も先発・リリーフの両方で活躍したのを覚えているファンも多いだろう。鎌田が選んだ第二の道は、なんと「不動産」の世界だった。
筆者は2018年に、あるラジオ番組の仕事で鎌田を取材。畑違いの分野に転職した経緯と現在について話を伺ったことがある。ただし野球関連の番組ではなく、取材時間も限られていたので、現役時代のことを深く聞けなかったのが心残りだった。
 今回は貴重な話をたっぷり伺うことができたので、2回に分けて紹介する。球界で得た経験を不動産の世界でどう活かしたのか? 最近転職した方、これから違う業種で頑張ってみようと考えている方にも参考にしていただければ幸いだ。

「元プロ野球選手」と自分からは言わなかった

 鎌田は現在、東京23区の北部を中心に不動産事業を展開する株式会社城北不動産の氷川台本店に勤務(東京・練馬区)。2013年、34歳の時に入社し、この春で10年目を迎えた。不動産の世界でもそろそろベテランになりつつある。
 



インタビュー中に笑顔を見せる鎌田 村上庄吾●撮影
 4年前に取材した時、鎌田は練馬区内で主に新築の戸建て物件を販売するセールスマンだった。「まだまだ覚えることも多いので、これからです」と語っていたが、今はセールスの仕事以外に「仕入れ」も担当。不動産を買い付ける業務で、億単位の金額が動く仕事だ。その大役を任されるということは、それだけ鎌田が会社に貢献してきた証しでもある。
「現役を離れてもう10年になりますし、”アスリート”という感覚はだいぶなくなりました」と語る鎌田は、すっかり不動産業界の人だ。が、気づく人は気づく。185cmの長身で、筋肉のつき方や醸し出す雰囲気が一般の人とはちょっと違うからだ。
「初めて会うお客さんに『昔、何かやってました?』と聞かれることがすごく多いですね。名刺を出すと『ああ、ヤクルトの!』と気づく方もいらっしゃいます」
 2度目に会ったお客さんから「ネットで調べたんですけど、鎌田さんってプロ野球のピッチャーだったんですか?」と言われることもよくあるとか。「『あ、調べました?』って返しますけどね(笑)」
“元プロ野球選手”という過去は、セールスの際に大きな武器になる。相手が野球好きならなおさらだ。だが、鎌田は不動産業界に入ってしばらくは「自分からは言わない」ことをモットーにしてきた。先に言うと「じゃあ不動産のこと、そんなに知らないでしょ」と思われるかもしれない。それを言うのは、不動産の知識を十分身につけ、自信を持ってお客さんにすべてを説明できるようになってからにしよう、と心に誓ったからである。
「今では、家を見に来たお客さんが、野球のユニフォームを着たお子さんを連れて来る時などに『あ、野球が好きなんですか? 実は……』と言うこともありますよ」
 そうやって自分から切り出せるようになったのも、営業マンとして成績を挙げてきたからこそだ。 

早稲田大時代に飛躍

 不動産業の話は後述することにして、ここで鎌田の野球人生を振り返ってみよう。1978年11月、秋田市に生まれ、小学校の卒業アルバムには「プロ野球選手になりたい」と記した。名門・秋田高への進学を志望したが果たせず、秋田経法大附属高(現・ノースアジア大名桜高)に入学した。
「秋田高に行けなかった時点で、野球を続ける気はなかったんですが、一緒に進学した中学の野球部仲間が『やろうよ』と熱心に誘うんで……」と野球部に入部。入ったからには一所懸命やるのが鎌田の性格で、3年の夏には控え投手として秋田県大会で登板し、甲子園出場を果たした。
 残念ながら本大会では登板機会がなかったが、甲子園に行ったことで、卒業時は推薦枠で入れる大学がいくつかあったという。しかし鎌田はすべて断り、早稲田大の自己推薦入試に挑戦した。「ひとつ上に受かった先輩がいて、自分もチャレンジしてみようかなと」。学業の成績も優秀だった鎌田は難関を突破し合格、晴れて早大野球部の一員となった。
 早大では1年時から公式戦に登板したが、2年までの通算成績は1勝11敗。せっかく抜擢されたのに、なかなか結果が出せず申し訳ないと感じた鎌田は、ここで一念発起する。
「フィジカル面のひ弱さを痛感したので、筋トレを一所懸命やったんです。当時はまだ、筋トレを真剣にやっている選手は少なかったので」
 
 これが功を奏した。3、4年の2年間で12勝6敗と見違えるような躍進を遂げ、3年時には春季リーグ戦で優勝も経験。さらに2000年開催・シドニー五輪の代表候補にも選ばれた。この時から五輪代表にプロ選手が参加。プロ・アマ混成の強化合宿に呼ばれたのだから、鎌田の成長ぶりが窺える。
「合宿の途中で『ちょっと体力的に厳しいな』と感じたので、監督と相談して代表入りを辞退しました。当時はそこまで欲がなかったんですね」
 オリンピックに出られるチャンスなどめったにないが、自分の力を冷静に見極め、先のことを考えて無理をしなかったところが鎌田らしい。

調子を落としてもヤクルトだけ残った

 一方、スカウト間の評価は高まり、鎌田は2000年ドラフトの有力候補になっていた。当時のドラフトはまだ逆指名制度が残っていて、有力選手は自分が希望する球団に抽選なしでいけた時代だ。鎌田のもとにも、3年時からスカウト陣が日参していたという。
「最初は7球団ぐらいから話がきていたみたいですが、4年の時に調子を落としたら、どんどんいなくなって(笑)。ヤクルトだけが最後まで残ってくれたんです」
 指名順位こそ2位だったが、担当スカウトが「1位と同等の評価だから」と言ってくれたこと、本拠地が大学時代に慣れ親しんだ神宮球場であること、前年、大学の1年先輩・藤井秀悟が入団していたことも決め手となり、鎌田はヤクルトを逆指名。「プロ野球選手になる」という夢を叶えた。
 
 2001年、若松勉監督のもとで鎌田は1年目から開幕一軍入り。4月3日の巨人戦にリリーフで出場し、プロ初登板を果たす。しかしプロの壁に当たり、早々と二軍落ち。しばらくファーム暮らしが続くことになった。
 ようやく一軍に戻ってきたのはシーズン終盤。チームは優勝争いの真っ只中だった。鎌田は9月26日の中日戦で初先発。見事にプロ初勝利を挙げ、チームに貴重な白星をもたらした。1年目は結局この1勝だけに終わったが、胴上げに参加。ルーキーイヤーに最高の瞬間を味わった。
「ただ、即戦力で入ったのにシーズンを通じて貢献できなかったことが悔しくて。2年目は『もっと体を大きくしないと』と思ったんですよね」
 線の細さを克服するため、鎌田は食事量を増やし、筋トレにも励んだ。ところがそれが裏目に出る。いざキャンプインすると、思うように肩が回らず、納得の行くボールが投げられなかったのだ。
「その時、『ああ、自分は1カ月くらいじっくりと時間をかけて肩を作っていかないと投げられる状態にならないんだ』って初めて気づいた」という鎌田。オフにやるべきことは、筋トレよりもむしろ投げ込みだったのだ。
「大学時代は、そんなことは考えもしなかったです。プロに入ると、自分では努力したつもりでも、キャンプで満足な球が投げられないと『オフに何やってたんだ!』ということになる。もっと己のことを知るべきでした」

地元の後輩・石川雅規から受けた刺激

 2年目の2002年は11試合に登板し、9試合に先発。チャンスはもらったが、フォーム変更など試行錯誤が続き、3勝2敗という成績に終わった。当時を鎌田は「いろんなところを直したり、あれこれ試しても結果が出なくて、精神的にもキツかったですね」と振り返る。
 ただこの年は、ひとつ励みになることがあった。同じ秋田市出身で、小・中学校の1年後輩だった石川雅規がヤクルトに入団。1年目から先発ローテーションに加わり、12勝を挙げて新人王に輝いたのだ。
「小さい頃から知ってる仲ですし、私が大学3年の時には、大学選手権の決勝で青山学院大の石川と投げ合ってますからね(青学大が勝利)。彼と一緒に先発ローテに入って、大いに刺激を受けました」
 転機になったのが、3年目の2003年だった。最初は中継ぎでスタートし、好投が続くと、途中から先発に復帰。「自分は前もうしろも関係なく、任されたところで全力を発揮しようと、ただそれだけを考えていた」という鎌田は、この年は30試合に登板。先発が15試合、中継ぎが15試合とちょうど半々で6勝7敗。後半はローテーションに定着し、完封勝利も2度マークした。
 しかし、ここから再び試練が訪れる。2004年は先発として期待されながら、不振に陥り1勝3敗。2005年は故障で一軍登板を果たせず、2006年に3勝を挙げたのを最後に白星から遠ざかることに。そしてプロ10年目の2010年、鎌田はシーズン途中の6月に、楽天へのトレード通告を受ける。
「その前にもトレード話が新聞に出たことがあったので、覚悟はしてました。編成から打診もありましたし、『やっぱりな』という感じでしたね」
その頃、すでに結婚していた鎌田は、単身赴任の形で仙台へ。
 移籍した年の楽天はマーティー・ブラウン監督が指揮を執り、翌2011年は星野仙一監督が就任。しかし一軍登板の機会は巡ってこないままファーム暮らしが続き、10月、ついにその時が訪れた。プロ11年目、32歳で初めて経験した「戦力外通告」。
「トライアウトを受けて、ダメなら野球をやめて就職しよう」と決意した鎌田。その時、携帯が鳴った。
※敬称略
(後編:不動産業で積み上げてきた信頼と実績。1年後輩の石川雅規の活躍も刺激に>>)

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引用元:BIGLOBEニュース

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