福島「低線量被曝」とコロナウイルス「偽陰性」問題
知的想像力、あるいは創造力の本質的な枯渇が見受けられるように思うのです。
何に関して?
政府のどうしようもない「コロナウイルス対応」の愚策連発を見て、の率直なところです。
いまここで求められているのは何か・・・本質的な「イノベーション」が、求められる局面にほかなりません。
「新型」コロナウイルスが検出され、その治療法やワクチンなども未開発、未確立というのが、現時点の私たちがグローバルに直面している状況です。
「エイズウイルス」の登場時ほどには、新しいタイプの病原体ではありません。しかし従来型でないことは間違いがない。
それに抗う組織だった方法が、いきなり自動販売機にお金を入れたら、ワンセット、バーンと出てくるような仕かけになっているわけがない。
ところが、そういう想像を一切欠くような「答弁」その他を、平気で目にするわけです。
加えて、ここで声を大にして言いたい。いったいここ10年来の、大学や高等研究機関に対する予算と人員の縮小、研究開発への手かせ足かせ圧力はいったい何事であったか?
製品化、実用化に直結しそうな枝葉の応用ばかり珍重し、地味で地道な基礎研究をどれだけ根絶やしにしてきたか?
よろしいか!?
「新型ウイルス」が新たに登場したとき、それを特定したり、適切に加療するための方法、ワクチン開発などは、よほど応用寄りに近いけれど、売り物に直結する商品開発ではありません。
そういう基礎研究開発、R&Dの足腰を持った研究者をこれだけ冷遇、痛めつけてきて、いざこうした新疾患が登場すると「1日どれだけのペースで進めるように指示」だと平気でのたまう。
どの口が何をいっているか、鏡を見、胸に手を当てて考えろと指摘せざるを得ません。
与党も困りものですが、野党の混ぜ返しも相当の「文系」ぶりで、かつて民主党政権期に目にした悲惨な「公共事業仕分け」の悪夢を彷彿させられました。
新型コロナウイルスを検出するPCR検査というのは、官費さえ執行すればお金に比例して時間あたりの成果が出るような代物なのか?
仮にそうだとしましょう。毎日3000検体をチェックできたとして、「その半分程度の結果は信用できません」などと「報告」すれば、政治屋なり総合職なり、サイエンス・リテラシーのない人はどのように反応するでしょう?
烈火のごとく怒って「そんな信用できない検査など、やめてしまえ!」などと激高するケースすら、容易に想像がつくような気がします。
しかし、本当にそうあるべきなのか?
政治屋はただ怒っていれば(怒るフリをみせていれば)ただ単に怒鳴りつけるためだけに、厚労省担当官を呼びつけるアホ陣笠の名前を耳にしましたが・・・それで議員としての役割が果たせるのか?
あり得ないでしょ?
現状は、新型病原体が登場して、まだ被害が出始めた初期に相当します。検出精度がまだ低く、ピークを高める段階ではない。未検出のしっぽ、テールリスクでウイルス駄々洩れ状態になっている。
こういう時期には、まずたくさんの検査ケースで試行錯誤の段階を踏みながら、検査法自体も本質的に強化していく、まさに「イノベーション」を推進すべき時期であることが、冷静で建設的、ものの分かった大人の見解というべきでしょう。
いつか来た道
3・11と「低線量被曝」のモラル
一連のやり取りを見ていて思い出さざるを得ないのが、2011年3月の東日本大震災と、これに続く「福島第一原発事故」直後の「被曝」「放射能」をめぐるリアクションです。
かつて物理学生時代、私は電子顕微鏡を扱っており、自分の身を護る最低限の基礎保険物理はわきまえていました。
そこで、福島第一原発事故の直後、どのようにすれば被曝リスクを下げることができるか、この連載も、またSNSなどを通じても、ボランティアの観点で様々な情報を発信し、SNSのフォローも5万近くまで急上昇した記憶があります。
私がこうした取り組みを継続せねばと思った個人的な動機は、いくつかの私のコメントに、被災地現場からご返信をいただいたことが大きかった。
無用の被曝は避けるべき。そのためには、このようにすると、期待値として見積もられる総被曝量を抑えることができるだろう・・・。
現地でリスクを避けるために必要な、保険物理の基礎を記すようにしました。そんな中で、本当に困ったのが、以下に示すようなリアクションです。
(被災地発、と名乗られたSNSアカウント)
「いまここで何をすればよいのか、だけ、言ってくれ! 我々は大変な状況の中にいる。お勉強している暇はない。大学の先生はこれだから困る。現場が分かってない。正しい情報だけを的確に示してくれ」
こういう短慮が一番、無用の日和見被曝などのリスクを呼び込んでしまうのですが、ご本人のリテラシーが足を引っ張り、危険を予防することが不可能なのです。
ちょっと冷静に考えてみてください。「我々は大変な状況の中にいる」のは本当だと思います。
しかし、それがどんな場所で、いったいどのような状況であるのか確認しなければ、正反対となる場合も珍しくない。
なぜなら、場所場所によって、また局面や状況に応じて最も適切な判断は全く異なるからです。すなわち「直ちに退避してください」か「無用に動かずその場で待機してください」か、またはどちらの可能性もある。
突き詰めれば現場で本人が判断力、放射能リテラシーをもって対処するしか、方法はありません。
その判別の仕方を、間違えないよう、丁寧に説明していたとき「我々にお勉強している暇はない。いまここで必要なのは安全の確保だ」と思考停止してしまうことが、どれほど危険であることか。
その場でも私は、根気強く説明し続けましたが、どれくらい理解されたかは、正直申して定かでありません。
被曝の有無、またそれによる障害や疾病の発症は、あくまでも確率的にしか見積もることができません。
私たちにできることは、その確率、つまりリスク割合を下げること。リスクファクターを正しく認識し、その局面局面で判断すること。
また積算被曝量が閾値を大きく超えないよう、コンスタントにチェックを怠らないこと、これに尽きます。
そして、それと全く同じことが、コロナウイルス対策とPCR検査にも当てはまることになります。
発症して初めて分かる新型肺炎
低確率感染のモラル
現時点でのPCR検査の感度あるいは的中度は50〜70%、あるいは30%とする見解も出されており、はっきり言っておよそアテになるものではありません。
非常にらちもないことを言ってしまうなら、発症して初めて解るというのが、実のところではないかと思います。
しかし、この検査で一度「陽性」と出てしまうと、それ以降は「感染者」として扱われ、隔離されてしまう。
隔離は大事ですが、その際「非感染者」と見なされた人たちと「感染者」と判断された人たちを、各々一群にまとめて、隔離したつもりになってはいないだろうか?
現在、PCR検査によるウイルス検出精度は、イノベーションのおよそ初期であって、当然のこととして限界が著しい。30%の精度であれば7割は間違っているということになります。
ここで分別すべきことは「検査結果が信用できなーい」とリテラシーを欠いたままブチ切れるのではありません。
「第1回検査陽性集団」と「第2回検査陰性集団」とを分けながら、各々の集団の中に、確率的に判断して間違いなく「偽陽性(FalsePositive)」の未感染者と、「偽陰性(FalseNegative)」の感染者とが混ざっていることを前提として、「第1回検査陽性/陰性集団」各々の内部での、ある種の「院内感染」的な状態を予防する、確率的な分別が、一番大切なのです。
科学的な良心にたがうことなく、対処するうえでは、低線量被曝のモラルと同様の配慮が必須不可欠になります。
「被曝はしているかもしれないし、していないかもしれない。また被曝してもガンなどを発病しないケースがある。それらを正確に跡付ける検査には限界がある」
「感染はしているかもしれないし、していないかもしれない。また感染しても肺炎などを発病しないケースがある。それらを正確に跡付ける検査には限界がある」
疾病発症のメカニズムは全く異なりますが、このように対照していくと、私たちが心得るべき対応は「確率」という観点で共通するものがあるのが分かると思います。
「降雨確率」と「ウイルス感染確率」
ここで私がお勧めするのは、私たちの生活に馴染んだ「確率」の考え方を応用して、一人ひとりが冷静に自己判断する、余裕を持った<リテラシー>の再確認です。
身近にある「確率」の例として「天気予報」を考えましょう。
「降雨確率」という言葉は、誤解を招きやすいものではありますが、私たちの生活に馴染んでるのは間違いありません。
先ほど挙げた例文を、降雨確率に当てはめて変形してみると「雨は降るかもしれないし、降らないかもしれない。また雨が降ってもびしょ濡れにならないケースもある。降雨とびしょ濡れを正確に跡付ける検査には限界がある」となるでしょう。
最近は、東京都内でも、港区の降雨とか、練馬区豊玉中の降雨とか、非常にローカルな気象情報を「予測」するアプリが普及しました。
それらは当たることもあれば、当たらないこともある。
でも「当たらないから」といって、そういうアプリを見ないという態度と、「当たらない可能性もあるけれど、念のためこまめに情報も見ておこう」という姿勢と、どちらがより安全に「びしょ濡れにならない」確率を上昇させるでしょう?
答えは言うまでもないですね。PCR検査も、初期ですからコストは高く、また精度は低いですが、多数利用することで、精度も上がり本当に役立つものになっていきます。
また、雨が降る可能性があると思ったら、折り畳み傘をカバンの中に忍ばせておくのが分別というものです。
傘なしに、雨に降られてしまったら、私たちは物陰に隠れ、濡れた服は自然乾燥するのを待つくらいしか方法がないでしょう。
ワクチンや予防接種なしに、ウイルスに感染してしまったら、私たちは隔離された場所で安静にし、未発症なら発病しないように、また発症した場合でも結局人間が病気を克服するのは本人の免疫によるしかないのだから、自然治癒を待つのが王道ということになります。
こうした分別が「普通」の科学リテラシーと言ってよいと思います。そして、それが今現在の日本政府、とりわけ国の政策決定プロセスに、きちんと見えてきません。
「政治判断」と称して、およそ明後日な空砲、あるいは逆効果になりかねない「対策」の連発になっているように見えます。
改めて、よろしいか!?
未知の状況に直面したとき、自然法則など第一原理から考えて、適切な対策を極微のヒントから一つひとつ積み上げて最善の解決を導くのが、「底力」「実力」と呼ばれるものにほかなりません。
どこかに書いてあるかもしれない「前例」「先例」をオウム返しするのは、AIの機械アタマの方がはるかに得意な仕儀です。
人間はもっと人間にしかできないことをすべきです。
今、目の前で発生している「新型ウイルスが人間を攻撃してきたとき、その治療法を確立する」といったタスクこそ、AIだ機械学習だといった本質的には二番煎じしかできないデータマイニング・ツールでは絶対にカバーできない、人間の本質的な創造力が問われる、イノベーションの局面です。
そこで使い物になる人間しか発揮できないクリエイティブな実力だけが、いま問われている。
それが枯渇の極みにあるのが、現在の日本であり、特に悲惨の極を示す国会答弁の類にほかなりません。
何とかしないと、本当に、国を損ねてしまいますので、純然と心配しています。
(つづく)
筆者:伊東 乾
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。